WEBレポート/「蓼科高原チェルトの森」別荘地事始

南蓼科台の軌跡

『蓼科高原チェルトの森』は、昭和42年(1967年)に開発工事に着手した『南蓼科台別荘地』をルーツとする蓼科高原での草分け的な別荘地。時代のニーズに応えながら、50年以上にわたり開発の歩みを緩めることなく進化し続けて来た。別荘地がどのような経緯で生まれ、どのように変遷してきたのか、誘致活動の先頭に立った当時の槻木区長・堀内さんのもとを訪ね、お話を伺った。

雲をつかむような話

 

『蓼科高原チェルトの森』の前身となる『南蓼科台別荘地』の開発が計画されたのは、昭和40年。今でこそ蓼科高原には多種多彩な別荘地が点在しているが、50年以上も昔の八ヶ岳山麓には大規模別荘地は全く無く、蓼科湖やプール平周辺に別荘がぽつんぽつんと建っている程度だった。
 現在『チェルトの森』がある場所は古田山と呼ばれ、辺り一面見渡す限りの原野。車が通れる道は、現在の上槻木バス停付近までしかなく、その先は馬や牛を曳きながら上る江戸時代さながらの峠道が延びているだけだった。古田山は、槻木地区をはじめとする近隣の集落が共有する山で、先祖代々カラマツの植林が行われており、ちょうど昭和30年代後半に伐採期を迎えていた。

 

当時、カラマツは樹脂が多く腐りにくいことから炭坑の坑道を支える支柱や建築現場の杭材に重用され商品価値が高く、農業の収入にカラマツの収益が加わり、槻木の集落も潤っていた。
 しかしながら伐採が終了すると、次に収益を得るのはカラマツが成長する30年後。自給自足が基本だった時代ならいざ知らず、当時は高度成長期の真っ只中。テレビ・冷蔵庫・洗濯機の三種の神器とか、カラーテレビ・クーラー・カーの3Cとか、消費文明の波に乗るには農業の収入だけではどうしても追いつかない。槻木地区の住民は、冬、耕作できない山里で安定した収入を得るにはどうすべきか議論を重ね、別荘地の誘致を検討することとなった。

 

高原の清涼な空気、八ヶ岳をはじめとする風光明媚な蓼科の自然環境は、昭和10年代から都会の文化人の間で評判となり、昭和30年代になると「早春」「東京物語」など数々の名画を生み出した映画監督・小津安二郎氏が、山荘・無芸荘をプール平付近に構えるなど、別荘地としての知名度が上がりつつあった。だが蓼科高原は、晴天率の高い乾燥した気候が特徴で、雨が少ないため川の水利権など問題が多く、大規模な別荘地開発は着手されなかった。
 その点、古田山には流れ清水と呼ばれる湧水の流れがあり、その流れは途中で地下に浸透していたので、農耕用水として利用されていなかった。槻木地区では、この湧水を別荘地の水道水として活用し、誘致活動を本格的にスタート。農閑期に入った昭和39年の冬、槻木地区の区長・堀内さんを中心に誘致促進メンバーが選出され、手作りの企画書を鞄に詰め、東京の名だたる企業を廻り始めた。
 「当時を思い返すと、“雲をつかむような話”ですね。車で行くことができない山里の奥に別荘地を造りませんか?て誘われて、はい、いいですよと簡単に応じてくれる企業はありませんよ」と堀内さん。あっちこっちに頭を下げて、足が棒になるほど歩き回って、『一度現地を見てみたい』と興味を示してくれた企業にようやく巡り会えたそうだ。
好感触を得た堀内さんは早速蓼科へ戻り、視察に来る幹部社員たちを受け入れる準備を始めた。

 

誘致活動を始めた昭和39年は、東京オリンピックが開催された年である。首都高速道路や東海道新幹線が開通するなど、世の中はスピード時代へ入りつつあったが、その一方で信州は、中央東線の電化・複線化工事がようやく進められているような状況。茅野市街と古田山を結ぶ県道は、粟沢橋から先が未舗装の砂利道だった。東京から遠路はるばる視察にやって来た幹部社員を、落胆させる可能性が高かったため、槻木の住民総出で荒れ放題であった山道を広げ、案内できる環境を整えた。
 そうした努力が報われ、土地を見学した開発会社幹部の評価は、槻木の人たちの期待を遙かに上回るほどの好印象。八ヶ岳や南・中央・北アルプスの眺望が素晴らしく、湧き水の美味しさにも感動したと好評だった。

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昭和40年代初頭の管理事務所前でスナップ
写真に収まる堀内さん(写真中央)


昭和30年代後半の茅野駅西口。八ヶ岳登山口へ向かうバス停が設けられていた


落葉松が伐採され地面の雪まで見える昭和40年頃の『流れ清水街区』付近


茅野市街と『チェルトの森』を結ぶ県道188号線は、
砂利道だった(昭和40年頃の中沢付近)


別荘地開発の決め手となった清流。今も変わることなくチェルトの森の水源になっている