蓼科生活Vol.2 夏沢旧道を歩く。
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樹のトンネルのような深く濃い森に包まれた夏沢旧道。要所要所に道標が立っている

蓼科高原「チェルトの森」別荘地は、茅野市街から夏沢峠へ至る旧道のルート上にある。
夏沢峠は、昭和41 年に麦草峠を越える車道が完成するまで八ヶ岳を横断する唯一の街道であり、
諏訪・茅野地域と小海・佐久地域を結ぶ交通の要衝であった。
歴史ある旧道を往事の面影を偲びながら歩いてみた。

 八ヶ岳越えのメインルートが国道299号線・麦草峠となった現在、夏沢峠の旧道が表舞台に出ることはない。「チェルトの森」別荘地内・鳴岩街区の古田溜池付近の幹線道路脇に立つ「至夏沢鉱泉」の道標の先に延びる山道が旧道なのだが、今やこの道の歴史を知る人は多くない。
 深い森に包まれた旧道は、今のような車社会になる以前、八ヶ岳で分断されていた諏訪地域と佐久地域を結ぶ主街道であり、夏沢峠・本沢温泉・稲子湯を経由して海ノ口まで延びている。
 上槻木から夏沢鉱泉へ向かうルートは、大正から昭和初期にかけて活躍した登山家で新田次郎著「孤高の人」のモデルとなった加藤文太郎氏が記した「単独行」に記述されるなど、昔は広く知られた道程であった。
 夏沢峠は、奥秩父の雁坂峠・北アルプスの針ノ木峠と共に日本三大峠の一つにも挙げられている。(夏沢峠の代わりに南アルプスの三伏峠が数えられる説もある)

夏沢旧道と上槻木を結ぶ別荘地内のメインストリート

「鳴岩街区」の古田溜池近くにある夏沢旧道の入口

往事の面影を残す石敷きの道

 今回歩いたルートは、「チェルトの森・鳴岩街区」の古田溜池から「夏沢鉱泉」へ至る8kmほどの道のり。旧道を辿って「夏沢鉱泉」に向かい、昼食と山間の秘湯を満喫して帰ってくる半日トレッキングだ。「夏沢鉱泉」の標高は2,060mなので、スタート地点の鳴岩街区との標高差は約700mある。
 旧道を歩き始めると勾配も緩やかで、よく整備された林道のように深い樹林帯の中に道が延びている。往事のものなのか、所々に石敷きの部分が残っておりとても歩きやすい。江戸時代から昭和初期まで馬で荷物を運搬していた名残が感じられる。

歴史が感じられる歩き始めの旧道。八ヶ岳山麓は8月でも涼しく、爽快なトレッキングが楽しめる

 直線的に延びる道をしばらく歩いて行くとヘアピンカーブのつづら折りに入り標高を上げていく。周囲の樹木はカラマツからミズナラに変わり、やわらかな広葉樹の葉に光が透過し輝いている。セミの鳴き声も薄らぎ、野鳥の囀りが森に響き渡る。
 深く濃い原生林の中をひたすら歩くこと1時間。シラカバやダケカンバの群生林が広がり、シャクナゲが生い茂り、道を進むにつれ周囲の風景は刻々と変化。
 林道のように歩きやすかった道も険しくなり、度々休憩とる。木陰に腰を下ろして水を飲んでいると、アサギマダラがステンドグラスのような羽根をゆっくりと動かしながら間近に飛来。そよ風に乗って林間を優雅に舞うアサギマダラに心が癒され、足の疲れも和らぐ気がする。

標高1,600m付近に多かったシャクナゲの群生

清涼感あふれるシラカバの森は絶好の休憩ポイント

夏の八ヶ岳山麓でよく見掛けるアサギマダラ。本州の高地で繁殖し、秋になると暖かい沖縄や台湾へ旅立つ“渡り”をする蝶

八ヶ岳の懐を歩く醍醐味

 かつて人馬が往来していた旧道だが、八ヶ岳越えの主街道の座を麦草峠に譲って半世紀、旧道の奥先までやってくる登山者も少ないせいか、標高1,700m を超えた辺りから道が荒れ、まるで登山道ようだ。クマザサが膝元まで生い茂り、倒木やゴロゴロ転がる石が行く手を阻む。
 昔の人は本当にこんな道を歩いていたのだろうか?苔が樹の根や岩を覆い尽くす暗く鬱蒼とした森を歩いていると、だんだん心細くなってきた。しかし苔が覆う岩のなかに、石垣のように積み重ねられた壁面を見つけ、明らかに人の手が入っていることに、ほっとした。

この先どこまで行けるのか?不安にさせる倒木や岩

針葉樹林に覆われた薄暗い苔むした石の道

足場の悪いガレ場は、細心の注意を払いながら進む

神秘的な苔生した森で異彩を放つ謎の石垣

鬱蒼とした森を抜け、突然視界が開けた眺望ポイント。霧ヶ峰の上に湧き出てくる積乱雲がエネルギッシュだ

 スタートして約2時間。勾配もきつく変化に富んだ山道を抜けると、視界がパッと広がった。展望台のような森の切れ目があり、車山や霧ヶ峰が一望できる。薄雲に包まれ霞んでいたが、北アルプスの稜線もうっすらと見えた。
 ルリビタキやウソなどの野鳥が目の前を飛び交い、森の住人から歓迎を受けているようで嬉しくなった。

八ヶ岳山麓は野鳥の楽園。図鑑でしか見たことがない野鳥が雀のようにいる。雌のルリビタキをカメラに収めることができた

夏沢鉱泉に近づいてくると道がなだらかになり歩きやすくなる

桜平方面と泉野方面の分岐点に立つ道標

 長らく続いていた上り勾配が緩くなり道がほぼ平坦になると、道の先の方から渓流のさざめきが聞こえてきた。「桜平・唐沢鉱泉」方面から上がってくる道と合流すると、今回の目的地「夏沢鉱泉」まであとわずか。道は再び上り坂となるが、よく整備されていてかなり歩き やすい。
 ほのかに硫黄の香りがする渓流を渡った先に、ソーラー&風力発電装置を備えた夏沢鉱泉の山小屋が建っていた。
 朝9時に「チェルトの森・鳴岩街区」をスタートし標高差約700mを歩き続けて約3時間半。労をねぎらうように岩肌を叩く渓流の音が響き渡っていた。

夏沢鉱泉の入口で出迎えてくれた渓流。
硫黄を含んだ水が岩を茶褐色に染めている標高2,000mの涼やかな渓流をご覧いただけます

日本高所温泉5位の秘湯

 「夏沢鉱泉」は、伝説の登山家・加藤文太郎氏も戦前に泊まった古い宿で、長年にわたり夏沢峠を往き交う人々を癒してきた山間の秘湯。標高は2,060m あり、パンフレットには日本高所温泉第5 位と書かれている。
 温泉は日帰り入浴可能だが、昼時に利用する登山客も無く貸し切り状態。浴室は野趣あふれる木造りで秘湯ムード満点だ。
 天然木の浴槽に茶褐色のお湯が満たされ、浸かると身体の奥深くまで温まり筋肉がほぐれていく。窓からそよいでくる風も心地よく、まさに極楽。山の中を3時間半歩き通さなければ味わえない充実感に満たされた。
 また「夏沢鉱泉」の食事は、山小屋とは思えないおいしさで、しっかりと調理されたもの。オーナーの畑で採れた新鮮野菜がふんだんに使われている。

長年にわたり峠越えの拠点として利用されてきた「夏沢鉱泉」。ソーラーパネル・風力発電装置を備えた現在の建物は、平成11年春に改築されたもの

雲の少ない日には、建物の前のテラスから北アルプスの穂高や槍ヶ岳が望める

自然噴出している冷泉を加熱している夏沢鉱泉。わずかに硫黄の香りがする

渓流の水を玄関脇のシンクに引き、野菜を冷やしている

夏野菜の旨味が味わえる夏沢鉱泉オリジナルカレー

 八ヶ岳から湧き出る天然の鉱泉と山小屋のスタッフの真心こもった料理を満喫し、往路の疲労を回復させてそろそろ帰路へ。渓流の音色を背に、シラビソの原生林に包まれた山道を下りいく。
 復路はほとんど下り坂なので足取りも軽く、道を覚えているので気持ちに余裕があり、苔むした地獄谷のような森、林床に咲く山野草の花々など、往路以上に道中の自然を満喫。約2時間半で「チェルトの森・鳴岩街区」の旧道入口に帰着した。

森の切れ目から天狗岳方向を望む。往路で見落としていた風景

花に集うヒョウモンチョウ。緑の森にヒョウ柄の羽根が映える

8月中旬から9月にかけて咲く高山植物ミヤマアキノキリンソウ

 車が無い時代、移動はすべて自分の足頼り。どんなに険しい峠道もひたすら歩いて越えていた。江戸時代、信州では家内安全の秩父三峯神社のお犬様信仰が盛んで、諏訪の人々は夏沢峠を越え川上村に至り、そこからさらに十文字峠を越えて三峯神社に参拝していたという。
 今回歩いた旧道は、そのほんの一部分にすぎないが、踏破しなければ得られない達成感は、昔の旅人の感慨に通じるものかもしれない。
 機会があったら「夏沢鉱泉」に一泊し,八ヶ岳を越えて海の口方面へ抜ける日本三大峠・夏沢峠旧道を歩き尽くしてみたい。

※旧道を歩く際には、熊除け対策として鈴やラジオなど音の出るものを必ず携行してください。

八ヶ岳へ直接アクセスできる旧道を持つ「チェルトの森」。麓から仰ぎ見ている稜線を自分の足で越えてみたい